【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第216回  サッカー・杉山隆一

2014年 11月 26日

 「アルゼンチン戦の得点は、半世紀がたったいまでも鮮明に覚えています。左から中央に切れ込み、相手のペナルティーエリア左角付近で右足を振り抜きました。練習で繰り返していた得意の形だったので、うれしかったね」
 50年前の1964年東京五輪をこう振り返るのは当時のサッカー日本代表、杉山隆一。アルゼンチン戦は駒沢競技場で行われた日本の初戦。そして鮮明に覚えているという得点は同点ゴールとなる日本の1点目だった。この試合、日本は南米の強豪を3-2の逆転で下す。杉山は試合後、アルゼンチン側から「20万ドル(当時1ドル=360円、約7200万円)で、連れて帰りたい」と言われたという。「20万ドルの左足」と称されるようになる理由だ。まさに歴史的勝利だった。
 この大番狂わせから遡ること4年弱。1960年11月、後に「日本サッカーの父」と称されるデットマール・クラマーが初来日を果たす。以降、日本では自国開催となる東京、続くメキシコ五輪に向けた研鑽の日々が始まる。杉山は苦笑いとともに当時を振り返る。「1960年にクラマーさんが来て、初めてボールリフティングを見たんですよ。いま考えたら笑っちゃう。サッカーの基本を代表合宿で初めて教わったんだからね。基本的な蹴り方も教わりました。クラマーさんは『これが代表選手なのか』とびっくりしたでしょうね」―。
 1941年7月4日生まれ、静岡県出身。中学時代からサッカーをはじめ、清水東高時代に国体で優勝。19歳で日本代表入りし、明治大在学中に東京五輪を迎えた。俊足を生かし、アルゼンチン戦に続くガーナ戦でも1得点1アシストの活躍を演じた。試合は2-3で惜敗したが、D組2位で準々決勝に進出し、チェコスロバキア(当時)に0-4で敗れはしたが、8強という好結果を残した。
 そして、この東京五輪から銅メダルに輝いた4年後のメキシコ五輪まで、多くのメンバーが残ってチームは成熟していく。杉山は「東京でアルゼンチンに勝って、『自分たちにもできる』と自信をつけた経験は大きかったんでしょうね。同じ顔ぶれで連携を磨くこともできました。振り返ると、東京五輪はメキシコで表彰台に立つための大きな通過点だったですね」。
 メキシコでも、杉山は5アシストを記録するなど、チームを支えた。大学卒業後は三菱重工で活躍。1969、1973年と2度の日本リーグ優勝などにも貢献した。1974年に現役引退し、請われてヤマハ発動機監督に就任。静岡県リーグ2部チームを日本リーグ1部に押し上げ、現在のジュビロ磐田の基礎を築いた。その後も後進の指導、競技の発展に寄与、現在も静岡県サッカー協会副会長を務めている。=敬称略(昌)

(提供 日本トップリーグ連携機構)