【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第215回  柔道・岡野功 

2014年 5月 28日

 事実上の決勝戦と見られていたのが準決勝の金義泰(韓国)戦だった。1964年東京五輪。この大会から正式競技となった柔道の中量級(80キロ以下)には20選手が参加した。岡野は準々決勝まで危なげなく一本勝ちを続け、そして迎えた準決勝。右の組み手をしっかり取ると、連続で得意の背負い投げを繰り出す。序盤から攻めに攻めたが、4月に痛めた右膝負傷の影響もあってか、決めきれず、判定にもつれ込んだ。それでも終始攻め続け、小外掛けで相手を横転させての優勢勝ち。決勝で対戦したホフマン(西ドイツ=当時)からは横四方固めで一本勝ちを収め、期待通りに金メダルに輝いた。
 1944年1月生まれ、茨城県出身。竜ヶ崎一高から中大法学部に進み、在学中に東京五輪を迎えた。柔道を始めた動機の一つが「ケンカが強くなりたいから」とも。初めて買ってもらった柔道着を宝物のように大切に扱ったという。穴があけば、つぎあてをし、寝るときには枕元に置いた。道場に通う子供はみなそうだった。そういう時代だった。
 柔道の魅力を知り、才能を開花させていった少年は、小さな体から繰り出す切れ味鋭い一本背負いが武器。五輪を迎える頃には「昭和の三四郎」とも呼ばれた。技の切れ味ばかりではない。自らを冷静に分析することもできた。五輪前に負傷した右膝を抱えて大舞台に臨むことを考え、寝技を重点に練習を積んだ。それが狙い通りに五輪の決勝で生きた形だった。
 翌1965年、岡野は初めて体重別で行われたリオデジャネイロ世界選手権の中量級でも圧勝。すでに、この階級では国内外に敵はいなくなっていた。そして当時は、無差別級こそ柔道―という思考が色濃く残っていた時代。体重別で行う五輪などとは違い、体重無差別で争う全日本選手権が世界一を争う舞台とも見られ、いま以上に注目を浴びていた。中量級に敵がいなくなった岡野にとっても目標はそこになっていた。
 金メダルを獲得した五輪から3年後、1967年の全日本選手権を制覇した。身長171センチ、体重78キロの体で無差別級王者に。まさに柔よく剛を制す―だった。体さばきとタイミングで一本背負いを繰り出し、大型選手を撃破した。2年後の1969年にも再び全日本の頂点に立つ。そして引退。引退後は道場を設立し、各大学で師範を務めるなど、後進の育成に尽力した。=敬称略(昌)

(提供 日本トップリーグ連携機構)