【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第212回 陸上・渡辺康幸

2014年 4月 9日

 まさに〝スーパーエース〟と呼ぶにふさわしい活躍だった。箱根駅伝では、いきなり大学1年から花の2区に抜擢され、総合優勝に貢献。2年は1区で区間新(1時間1分13秒)を、3年では2区で区間新(1時間6分48秒)を叩き出した。「とにかくモノが違う」とは早大OBの名ランナー、瀬古利彦の評だ。4年でも2区で8人抜きの激走を披露した。華やかな世間の注目を浴び、早大の渡辺康幸は走り続けていた。
 当時の代名詞は「有言実行」。瀬古の持つ1万㍍日本学生記録(27分51秒61)の更新も公言していたことの一つ。大学4年の世界選手権予選で27分48秒55をマークし〝瀬古越え〟を果たすと、後日、「絶対の練習をして絶対の自信があったから言うんです」と語っている。
 若き天才ランナーは将来、マラソンで世界の強豪と勝負する青写真を描いていた。ただ、この道は真っ直ぐ栄光に向かってはいなかった。
 まず大学3年の3月、びわ湖毎日でマラソンデビューを計画した。しかし、風邪と花粉症でコンディションを崩し出場を見送るはめに。挽回を期した翌年2月の東京国際。アトランタ五輪男子マラソンの代表選考レースの一つだったが、ここでも欠場。レース前日の練習で左太ももに肉離れが発生したのだ。スタートにすら立てない状況に「僕がこのまま終わるような選手だと思ってほしくありません」。無念の涙がほおを伝った。
 幸い故障は軽く、わずか3週間後のびわ湖毎日に強行出場。だが、先頭集団に付けたのは35㌔すぎまで。そこから後退し、2時間12分39秒の7位。五輪切符は露と消えた。「意識が朦朧として前が見えなかった。足に来た」。簡単に勝てるほど42・195㌔は甘くなかった。
 大学卒業後はヱスビー食品で競技を続けたものの輝きは戻らなかった。慢性的な左アキレス腱の痛みが癒えないまま2002年、引退。「走る意欲、向上心をなくしてしまった」。フルマラソンは、あのびわ湖毎日が唯一の完走レースとなった。
 現在は母校・早大の駅伝監督として指揮を執る。就任当初こそシード落ちも経験したが、2010年度には箱根駅伝で総合優勝に導き、出雲、全日本と合わせ大学駅伝3冠を達成した。栄光も挫折も知る、かつての〝史上最強の学生ランナー〟は「やはり日本人のスターが出てこないとね」と語る。箱根を、そして世界を目指す戦いは、指導者に立場を変えて続いている。=敬称略(志)※記録は全て当時


(提供 日本トップリーグ連携機構)