【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第211回 車いすバスケットボール・京谷和幸

2014年 4月 2日

 かつて将来を嘱望されたサッカー選手がいた。京谷和幸。高校時代、全日本ユース代表に選出されたミッドフィルダーだ。悲劇は1993年11月、ジェフ市原でプロデビューを果たした1週間後に起きた。乗用車を運転中、脇から出てきた車を避けきれず、電柱に激突。気が付くとベッドの上で点滴の管を付けていた。
 2カ月後、医師から一生、車いすだと告げられた。下半身不随だった。事故後、交際していた陽子さんの強い勧めで、宣告されたときにはすでに結婚していた。彼女は歩けなくなることを知っていたのだ。事実を突きつけられた京谷に、新妻は「2人なら乗り越えられるよ」と言ってくれた。なぜか頭に来た。「お前に俺の気持ちが分かるか。いいよな、お前は泣けて、俺は悲しすぎて涙も出ねえよ」。当時22歳。気持ちのやり場が見つからなかった。
 1人になったら泣けてきた。夜通し泣いて涙が枯れ、空腹に気付いた。「俺には食べ物を買ってきてくれる人がいる」と思った瞬間、妻の言った「2人なら」の意味が染みた。「落ち込んでいられない」。翌日からトレーニングを始めた。負けず嫌いを地でいく男は、1年半以上掛かると言われるリハビリを8カ月でクリアし退院した。
 車いすバスケットとの出会いは、陽子さんが障害者手帳の交付手続きに行った役所で、窓口担当をしていたクラブチームの指導者に誘われたのがきっかけだった。初めて練習に行った時、京谷は「こんな真似はできない」と思ったという。腕だけで車いすを漕ぐのもきつかったが、もっときつかったのは止まることだ。走っている車輪を素手で止めると、手の皮がベロリとむけた。
 だが、これも練習を重ねることで克服。ガードのポジションでサッカー仕込みの攻撃センスを発揮し、頭角を現していく。パラリンピックの代表を意識するようになったのは、人工授精で授かった長女の存在が大きかった。「この子が誇れる父親になりたい」。サッカー選手だった頃は自己中心的だったと反省し、欠点を全て捨て去るつもりで臨んだ。そして、シドニー、アテネ、北京と3大会連続でパラリンピックに出場。北京では日本選手団の主将も務めた。
 両足の自由は確かに失った。ただ、それを乗り越えた先で得た「充実感」は、とてつもなく大きく深かった。「家族がいて、夢中になれる車いすバスケがある。もう、仮に医学が発達して足が治るとしても、このままでいい。今の自分が好きなんです」=敬称略(志)

(提供 日本トップリーグ連携機構)