【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第207回 スキージャンプ・八木弘和

2014年 2月 5日

カテゴリ: コラム

 1980年レークプラシッド五輪70㍍級ジャンプの1本目。青色のジャンプスーツを着た八木の踏み切りは遅く、高度は低かった。それでも持ち前の足の強さでスキーを引きつけ、87㍍まで持っていった。2位。そして勝負の2本目。1位につけたインナウアー(オーストリア)は90㍍を飛んでいた。先行されたことで力みが生まれたか―。踏切のタイミングが悪く、思うような飛距離は出ない。83・5㍍。「あれでよく2位に残れたものだ」と父で日本代表コーチの博氏がいうほど、納得の内容とは遠かった。
 とはいえ、前回1976年インスブルック五輪で入賞者すら出せなかった日本にとってはスキー、スケートを含めて前々回の1972年札幌五輪以来のメダルであり、レークプラシッド五輪でも、この銀メダルが結果として唯一のメダルとなった。
 1959年12月生まれ、北海道小樽市出身。明大時代に全日本学生選手権を制した父は、息子が小学6年の時に指導を開始した。「こいつはものになる」。信念のもとスパルタ教育を施す父。その期待に応えるように、札幌五輪金メダルの笠谷幸生が「いつでも60%以上の力を発揮できる」と評価するまでに心身の強い選手に育っていった。
 1979年-80年のシーズンに新設されたジャンプのW杯で優勝1回、シーズン総合4位にもなった。そして五輪。成功とはいえない2回目の飛躍もあって「10位位内に入れればいいと思った」というが、銀メダルという結果に「いつも『普段着のジャンプをしろ』といわれていたので、それを心掛けました」と思わず熱いものがこぼれた。その傍らには、やはり目を潤ませて「でかした」と喜ぶ父の姿もあった。練習を始めた小学生以来、まさに親子二人三脚で獲得した銀メダルだった。
 その後は故障にも悩まされ、1984年サラエボ五輪後に引退。1989年にオーストリアにコーチ留学し、1991年にはデサントのスキー部監督に就任して、1998年長野五輪ラージヒル個人と団体で金メダルを獲得した船木和喜を育てた。その後、日本代表コーチなどを歴任し、日本ジャンプ界の発展に力を注いだ。=敬称略(昌)

(提供 日本トップリーグ連携機構)